超絶技巧を超えて 吉村芳生展
1950年に山口県で生まれた吉村芳生は山口芸術短期大学卒業後、広告代理店にデザイナーとして5年働いた後、創形美術学校などで版画を学び、版画とドローイングの作家としてデビューしました。初期には、新聞紙、金網、風景、身のまわりの物など、日常のありふれた情景をモチーフにして、明暗をオリジナルの手法で描いたモノクロームの作品で、国内外の多くの美術展に入選を重ねます。1985年には山口県の徳地に移住し、豊かな自然に囲まれた環境の中で制作活動を続け、鮮やかな色鉛筆で描かれた花がモチーフとして登場するようになり、小さな画面から徐々に大きな画面に咲き乱れる花畑を描くようになります。
自画像は、吉村が初期の頃から一貫して描き続けてきたライフワークともいうべき主題で、膨大な数の作品が残されています。モノクロから色へと移行するきっかけとなったインドの自画像をはじめ吉村の代名詞にもなっている新聞と自画像は、その執念に圧倒されるでしょう。
2007年「六本木クロッシング:未来への脈動」展(森美術館)への出品作が注目を集め、57歳の吉村は遅咲きの画家として現代アートの世界で広く知られるようになります。その後、精力的に制作を続けていましたが、2013年、病のため63歳で惜しまれつつ亡くなりました。
本展では、初期から晩年までの代表作を展示して、現代アートのフィールドに確かな足跡を残した吉村芳生の創作活動を回顧いたします。
開催概要
※新型コロナウイルス感染拡大防止のため、展覧会の中止や延期、一部内容が変更になる場合がございます。最新情報は、そごう横浜店ホームページ・そごう美術館ホームページをご確認ください。※美術館入口掲示「ご入館の際のお願い」にご理解・ご協力を賜わりますようお願い申しあげます。
見どころ
吉村スタイルを自分の眼で目撃してください。作品から離れて、次に近づいて、そしてまた離れて、位置や角度を変えて観てみてください。単眼鏡などをお持ちになるのもお勧めです。
作品紹介
銀座・藍画廊での初個展のため、画廊の壁面に合わせて全長17ⅿで制作された。ケント紙と金網を一緒に重ねて銅版画のプレス機にかけた後、紙に写った凸凹の痕跡に鉛筆でなぞり立体の描写を加えている。網目の数は約1万8千個あり、完成までにはおよそ70日が費やされた。タイトルにある“ドローイング”とは、実在物の模写のこと。吉村は、感情を完全に排除し丹念に金網を再現するこの手法を、「機械文明が人間から奪ってしまった感覚を再び自らの手に取り戻す作業」として、長距離ランナーが一歩ずつ進む様子に例えた。吉村にとって、写し続ける生活の原点となった記念碑的な作と言える。
〈ドローイング 写真〉、つまり写真の模写の一種。撮影した写真を大きく引き伸ばし、鉄筆で2.5㎜四方のマス目を引く。そのマス目ひとつひとつを、拡大した方眼を引いた紙に、鉛筆で模写している。どこまで進んだかがわかるように「のぞき枠」を使用して、ジーンズの折り目までも執拗に描き写している。
1985年10月にインド・ニューデリー国立近代美術館にて開催された「日本現代絵画展」のために出品作家としてインドを訪れた吉村が、翌年にかけて発表した自画像のシリーズ。モノクロの表現を主としたこれまでとは大きく変わり、色鉛筆を用いた鮮やかな色彩によって描かれている。異文化の地で体験した強い日差しと強烈な色彩は、吉村にとって大きな刺激となった。
吉村は「新聞は社会の肖像」で「自画像と同じ」と語る。新聞紙と自画像どちらも描いているこのシリーズは、新聞の1面を読んだ後、自身の顔を撮影し、その紙面と表情それぞれを同じ紙に二重に描き写している。まず、紙面を2.7倍で拡大コピーし、カーボン紙を当てて紙に転写。そのアタリをもとに、文字や広告・写真すべてを細部にわたり写し取る。自画像は、撮影した写真にマス目を引き、写し取った新聞紙の上に拡大・転写した。
山口県仁保川に浮かぶ中洲の風景を描いた、全長10m22cmからなる吉村作品の中で最大級の作。枯草に交じって一面に咲き誇る菜の花、そして草花や曇天の空模様を鏡映しにしながら風に揺らぐ川面を、最終的に上下さかさまにして完成とした。虚構と現実あるいは日常と非日常が入れ替わった、天も地もない未知なる世界である。他の花シリーズとの決定的な違いは細部の緻密さが薄れた点にあるが、作家の興味はこの印象的な構図や明暗のコントラストの方に向けられているようだ。吉村は花について「永遠に繰り返す命のような世界、浄土のような感じ」として、「あの世の世界を描いている」と語る。ここでは画面下の黄色い菜の花の背景をあえて真っ黒に塗りつぶしたことで、妖艶なまでの生々しさとともに死の気配が漂っている。
ある施設の金網のフェンスごしに見える花盛りの見事な藤の木を描いた作品である。描く際に利用した写真が残っているが、これを見ると、描かれたのと同じ情景が存在していたのではないことがわかる。吉村は藤の花の同じ部分の写真を複数枚プリントして、何度か繰り返して貼り合わせ、本来の状態よりもずっと横に長く引き伸ばしている。そして花の手前に存在していた金網と、背景の建物をすべて排除して、藤の花だけを描いた。本作制作の動機は東日本大震災で、吉村は花のひとつひとつが亡くなった人の魂だと思って描いたという。