【連載】富裕層ビジネスの世界 日銀の静観の裏に潜む難問
「まさかこんなに円安が進むなんて。うちとしてはありがたい話だが…」
ある輸出メーカーのIR担当者は9月13日、ドル円のグラフを見ながらこうつぶやいた。9月1日に円がドルに対して140円台まで下落し24年ぶりの安値水準となって以降も円安は加速、この日も1ドル144.13円まで下落していたからだ。
ここ最近の急激な円安を受けて政府・日銀は、連日のように市場を牽制する発言を繰り返している。9月7日には鈴木俊一財務相が急激な為替の変動には「必要な対応をとる」と発言。翌9月8日には財務省、日銀、金融庁の3者が会合を開き、為替相場の急変に強い警戒感を示した。そして9月9日には日銀の黒田東彦総裁が官邸の岸田文雄首相を訪ねて市場をけん制した。
それでも円安・ドル高傾向は止まらない。そのため日銀は9月14日、銀行など金融機関で為替売買をするディーラーたちに電話で「ドル売りだと、いくらのレートでいけますか」と問い合わせた。これは「レートチェック」と呼ばれるもので、いわゆる口先介入から一歩踏み込んで為替介入の「準備」に動いているということをアピールするものだ。つまり政府・日銀も、あまりに急ピッチな円安進行に強い警戒感を抱いていたのだ。
円安がなければ赤字に転落
ただ円安は、輸出企業にとっては追い風だ。日本経済新聞によれば、日経平均株価採用の主要製造業が2022年4~6月期に計上した円安による利益影響額は、差し引きで1兆470億円のプラスだったという。
このうちトヨタ自動車は、営業利益段階で1950億円の押し上げ効果があり、営業外収益でも為替差損益として1832億円を計上した。ホンダは642億円の営業利益押し上げ効果、マツダも179億円の営業利益押し上げ効果に加え、332億円の為替差損益を計上している。
自動車メーカー以外でも住友化学が568億円の為替差損益を、村田製作所が300億円の営業利益押し上げ効果と120億円の為替差損益を計上するなど、輸出型の製造業はいずれも円安の恩恵を大きく受けているのだ。
「円安が利益の底上げとなった」と語る製造業の幹部は、「円安がなかりせば赤字に転落していたのは間違いなく、本当に助かった」と胸をなで下ろす。
製造業の基盤弱体化で恩恵も限定的
とはいえ、喜んでばかりもいられない。8月の貿易収支が過去最大の赤字となっているからだ。1~8月の通算は12.2兆円の赤字となり、通年でも14年の12.8兆円を上回って過去最大を更新する可能性があるとみられている。輸出型の日本経済にとって円安は追い風だったはず。にもかかわらず輸出自体が伸び悩んでいるのだ。
背景には、製造業の生産基盤の弱体化がある。経済産業省の製造工業生産能力指数(15年を100とした指数)は7月時点で95.2とコロナ前(19年平均)を3.0%下回り、1984年ごろの水準まで落ち込んでいるのだ。
「バブル崩壊やリーマンショックなどを受けて、製造業は設備投資を手控えたり、海外移転などを進めたりしていった。そのため、製造業の縮小傾向は顕著となっている」(エコノミスト)というのがその理由。つまり産業構造が、円安による単純な輸出拡大効果を狙えなくなっているわけだ。
しかし、円安の恩恵を少しでも受けられる輸出型の製造業は恵まれた方。国内向けの販売が中心だったり、原材料などを輸入に頼っていたりする企業には逆風が吹き荒れる。
新型コロナウイルスの影響はもちろんのこと、原油は高値で張り付いたままで原材料も高騰している。さらに中国のロックダウンや、ロシアによるウクライナ侵攻によってサプライチェーンが断絶し、半導体不足も相まって輸入品自体が入ってこないなど、マイナス要因を挙げればきりがない。そこに円安の進行が加わったのだから、たまったものではない。
こうした流れを受けて、我慢し切れなくなった企業は価格転嫁に乗り出し始めている。しかし、それもまだBtoBの業界が中心。長らくデフレを経験してきた消費者は値上げに敏感なため、BtoCの業界は値上げに慎重で、消費者物価指数を大きく引き上げるまでには至っていない。
「上昇したコストをそのまま転嫁できれば簡単なのだが、そんなことをしたらお客様に買ってもらえず売上げに響く。うちみたいな円安がマイナスに作用する企業にとっては、本当に苦しい時代で、どこまで耐えられるかの体力勝負に突入しているといえる」とある小売企業は嘆く。
日本経済の安定か、それとも円安回避か
このように、かつては「円安大歓迎」だった日本だが、ここにきてそうとも言えなくなっている。特に、半年間で30円安という異常なスピードは経験したことがないもので、「日本経済の終わり」といった論調の報道も目立ち始めている。
しかしこうした円安に対して、「異次元緩和を始めとする日銀の政策を変更さえすれば解消する」と指摘する声もある。
そもそも、最近の円安の原因について「要因の半分以上はドル独歩高の影響。各国の中央銀行が、金融緩和政策から金融引き締めへと政策変更して金利を本格的に上げ始めている中、日銀は利上げに動かない。そのため主要国では円が一番売られやすく、日本側の要因として円安が進行しているのだ」とあるエコノミストは分析する。
というのも、欧米諸国は猛烈なインフレに襲われている。例えば英国では、1家計あたりの年間エネルギー関連の支出が100万円超に上る見込みとなって大騒ぎになっているほど。こうしたインフレを抑え込むために金利を引き上げているわけだ。
これに対し日本は、消費者物価の上昇率が10%の英国や8%の米国などと違って2%程度と安定している。また欧米諸国と違って賃金も上昇しておらず「ここで金利を引き上げるとスタグフレーションに突入してしまう」という危機感を持っており、静観の構えだ。
そのため、あるエコノミストは、「円安を解消したければ、日銀が世界に同調して異次元緩和政策をやめれば簡単に食い止められる」と指摘する。
しかしこのエコノミストは、「本当にそれでいいのか」と疑問を投げかける。
「確かに円安は進行しているが、日本経済自体は欧米諸国と比べて安定している。欧米は本格的なスタグフレーションに直面しており、景気の長期的な冷え込みは必至。賃金が上昇しづらい日本もそのような状況に陥ってしまえば、欧米よりも影響は深刻だ」
一部には1ドル180円程度まで円安が進行するとみる向きもある。円安を食い止めることを優先するのか、それとも景気の冷え込みを防ぐことを優先させるのか。どちらを選択するか、非常に難しい問題が横たわっているといえそうだ。